奥多摩尾根歩き
城山南東尾根、グミ尾根、ヨメトリ坂

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荷田子峠→臼杵神社


グミ尾根の後半は戸倉山茱萸御前の碑や臼杵神社といった立ち寄りポイントがあります。

巻き道を捨て、果敢に尾根筋を歩くわたくし。
480mあたりから南東の方向にトンガリ山が見えました。名前はわかりません。足元から採石場からの轟音がダイレクトに駆け上がってきます。
新矢柄橋(しんやがらばし)が見えました。
わりとあっさりと巻き道と合流します。
で、突然、立派な階段が出現。
いったい何があるのか、と思いつつ先を急いだんですが特に何もなく、道標があって、
じわりじわりと体力を削ぐ長い登り坂があって、
こんな場所に着きました。
左の祠。
右の石碑。「戸倉山茱萸御前(とくらやまぐみごぜん)」と刻まれています。グミ尾根の親分格がココなんでしょう。
であれば、敬意を表して石碑の右に続く巻き道ではなく、このピークを訪ねようと思います。
時間にして5分ほどでてっぺんに到着。何もありません。見事に何もありません。1本でもグミが生えていたら話のタネになるところですが、
ほぼ北の方向にこんな眺めが得られるくらいです(すみません。仮にグミが生えていてもわたくしにはわかりません。ただ、グミの実はよく知っています。というか覚えています。食べると甘酸っぱくてサクランボに似た赤い実です。
今は昔の学生時代、知人の知人が長野県の大鹿村で自給自足を始めたというので友人と2人で遊びにいきました。貧乏かつ無謀でしたから東京から無チン乗車やらヒッチハイクやら、トンネルで野宿したりしながら集落を見下ろす山腹の小さな知人の知人宅にたどり着きました。
知人の知人宅には厳格なルールがいろいろあって、その一つが大便後の紙は決して便槽に落としてはいけないというもの。屎尿は肥料に使うので、有害物質が含まれている紙を混ぜてはダメという理由でした。その便の素になるタダ飯[とはいっても基本はごま塩をかけた玄米ご飯とテキトーな葉っぱが入った薄ーい味噌汁]をいただくかわりに、元は畑だった場所の草刈りや整地、薪集め、炭窯づくりのための穴掘りなんかを手伝っていました。
んっ、何の話だっけ。そう、そんなある日、知人の知人が里に捨てられていたのをもらってきたというバイクに乗って山道で遊んでいると、友人が「あれ、グミじゃない?」とバイクを放り出して赤い実のなった木に駆け寄りました。鮮やかな色が付いていてしかも甘みがある食べ物は久々でした。わたくしたちは餓鬼のようにむさぼり食いましたが、グミは山の斜面一面に生えていて極楽のようでした。
友人は東京から持ってきたギターのボディーにグミを大量に入れて「彼女へのプレゼント」などといって鼻の穴を膨らませていたことも覚えています。あー、甘酸っぱ)。
そんなわけでとくに何もなかった頂上から下りてくると、すぐに巻き道と合流します。
何カ所かで見た「市 ぐみの木」。けれどもどれもスギでした。?
道中。アイゼンを付けたほうがいいのかどうなのか、微妙な凍り具合でした。
690mのピークを通過。
急登の先に、明るい空が広がっています。
その前の「ユズリハクボ」。これは棡葉窪という沢の名前のようです。この近くが源頭なのでしょうか。
大伐採地に出ました。
伐採地の縁をズーッと向こうまで歩きます。
グミ尾根を振り返った眺め。
伐採地から20分ほど歩きました。途中の尾根筋か巻き道かの選択で果敢に尾根筋に踏み入ると、こんな道標がありました。で、右の方を見ると、何かあります。
臼杵神社でした。神社があることはまるっきり頭になかったので、巻き道を歩いていたら気付かなかったかもしれません。
祠が2宇ありました。臼杵神社は元々はカイコの餌になるクワの豊作やネズミによる食害がなく、カイコが元気にたくさん育つ豊蚕を祈願する神社だったようです。ネズミの天敵であるネコは養蚕の神の使い、あるいは養蚕の守護神とされ、臼杵神社の祭日ににネコの像を供えてそれを持ち帰ることもされていたといいます(参考:『檜原村の狼信仰』西村敏也著)。
ただ、現存する石像はどう見てもネコには見えません。これは右の祠の右側にある口を開いている阿形(あぎょう)。大岳神社や中尾根で見た狛犬によく似ていて、イヌかオオカミ(オイヌサマ)を模した像じゃないでしょうか。
左は口を閉じている吽形(うんぎょう)。
「臼杵宮」と彫られた石塔。
「文政一二丑三月」と彫られた石塔。
こちらは新しいキツネの像。「平成16年5月吉日奉納 柏木野自治会」の銘があります。